ライトダウン

読書したいという気持ちだけ先走る

五等分の花嫁、流行ります。

オモコロ杯の結果発表を12時間後に控えて尚、五等分の花嫁を読み進める手が止まらない。

結果が出て、自分の作品が果たして賞を取るか否かに関しては、正直なところ大きな関心がない。ただ、賞レースに作品を出すからにはより上の賞を取れるように作るべきだと思うし、そのつもりでやった。でなければ賞や、あるいは自分の作品に対して失礼だと思うから。

 

一番興味があるのは、「オモコロという媒体がどういった作品に賞を出すのか」という点にある。

編集長である原宿さんが「最近はFunny100%ではなくなってきた(Interestに寄ってきている)」と発言していたことは興味深い。それは彼の原宿日報やTwitterの投稿を見れば明らかではあるが。自分の周辺で話題に上がったことのある『動いている庭』や『あいたくてききたくて旅にでる』を原宿さんが話題に出したときの衝撃は記憶に新しい。

 

年々、求められているのはオモコロっぽ〜〜い文体や写真使いでオモコロっぽ〜〜い雰囲気の記事を仕立て上げることではない、ということが態度として如実に現れている。というかネット記事の主流がInterestを交えたFunnyになってきてないか、そんなことないか。

 

どういう記事に賞を出すのだろう。自分の記事がノミネートされるよりも、何がどう評価されているのか、その評価軸が気になる。願わくばノミネートされていたらもちろん嬉しい。去年銅賞を獲ってしまっただけに、なまじ緊張はする。

 

『時間の比較社会学真木悠介をずっと読んでいたら、マンガが読みたくなって五等分の花嫁を3巻まで買ってしまった。いままで、なんとなく流行っている・なんとなくウケていることと五人のキャラクターの造形だけ知っていた。マンガ、というか絵の面白いところって「描いている」ところにあると思う。何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが。たとえば絵の中における“鏡”は、そこに必ず描き手による描写が発生する。現実の鏡は何もせずとも鏡面に向かい合うだけであらゆるものが反射して写し出される。しかし絵はそうはいかない。鏡を描いたとて、現実のようには写し出されず、そこには描く行為が発生する。どうやっても描き手の意図や技術がそこに漏れ出す。見せ場とか伏線のようではないコマにも、描くという行為を通じて作者の意図や技術が反映されてしまう。物語の情報だけをなんとなく追うのではなく、すべてに息の吹きかかった広大な作者の庭をゆっくりと散歩するような気持ちで味わおう!みたいな気分で五等分の花嫁を読んでいる。

 

ここ数年、自分の身になるような専門書を読まなきゃ!という半強迫的な思考に陥って難しそうな本ばかりに手を伸ばそうとしていたが、世間的に人気なマンガも読むし、専門書も読むし、でいいんじゃね?と自分に言われてからハッとしてマンガを買った。なんとなくそれで心が軽くなって、いろんな本に手を出す抵抗がどんどん薄れていった。マンガに飽きたらまた『時間の比較社会学』を読んで,という併読もそれでいいじゃないの、と思うようになって心が軽い。